マッチョに突き飛ばされた拍子に擦り剥いた傷をシスターが甲斐甲斐しく手当てしてくれた。ぐだぐだに手間取ってやがったがな。可愛らしい修道服を着ていて、毛の処理がちょっと甘いんだぜ。後になっても何度も思い出す光景さ。ほとんど傾いた夕日が教会のステンドグラスを透かして光をばら撒き、宝石のように大きな粒を床じゅうあちこちに散りばめる。俺とシスターはまるでそれを拾うみたいに光の中心に屈んでたんだけど、実はお互いのこと以外まるで気にしてないって様子で会話を続けていたんだ。
「あなたはそれほどまでにこの空虚さから逃れたいのですか?」俺の肘を包帯でぐるぐる巻きにしながらシスターが言った。
「そうしなければならない」
「あなたがいま脱出することはできないわ」
「そうしなければ、そうしなければいけない」
なにかあてがあってこそ時間は経っていくのであって、ただビール一本の為に一つの場所から離れられなくなっているのならば、それは時間が止まったのも同然である。そして時間の止まり方にも色々あり、これというあてもなしにいるものにそれが起こると、人間にとっては時間と共に動くのが普通であるから、これは恐ろしく息苦しいことになる。
「あなたが全てを語った時にやっと逃れられるかもしれないですね」
「俺は君に何もかもを言うよ。君が言って欲しいと望むことならなんでも」
息苦しさや倦怠から逃れられるなら何もかも言うだろうと思った。人は何度も繰り返すということに耐えられるようにはできていない。日常とは狂気の連続だ。そんな感じでいるだけで一種の自己崩壊が始まって、そうして自分が崩れていくのが、全てのものが自分に注意していると思われてくる形を取る。
椅子が硬いのも椅子が硬いではすまなくて、ビールの減り方が遅いのとどういう具合にか結び付けられ、窓もわざとこっちの方に光線を送っているようで、自分の顔がそんな風に変になっていることが相手に分かったらと思えば息も止まりそうになり、そしてすでに分かっているはずではないかという、放ってはおけない気分もそれに加わる。
「あなたが言う必要がある何もかもですよ」
「うん。君が聞く必要があるなにもかもだ。ずっと一緒にいよう。あなたに全てを言おう。でもこのときにじゃない」
「あたしはあなたの空虚さを軽蔑しないわ」
海面が両岸の泥の土手の間に満ちてくる。空は雲の動きが激しく、非常に低く暗く、ところどころ黒くなっている。ホテルは閉まっている。河口からごく薄い霧がやって来る。霧は目の前で踊り下降し海面で解体してしまう。水の動きはすでに見分けにくくなっている。潮の流出はその力を失っている。
「あなたはそのためにギターを奏でているのでしょう。俺のためだけではなくて全ての空虚さのために」
「あなたはあたしと別れたいのですか? でもどうやって別れるつもりなんです? どこに行くつもりなのでしょうか? あなたがあたしと一緒にいない場所というのは一体どこにあるのでしょうか?」
「もし君に何かが起きたら俺はそれに耐えられないし、それを待つこともできない。もし俺がこの先消滅することになったとしてもそれは変わらない」
「あなたは何もかもを知っていらっしゃいますね」
「はい。何もかもを知っています」
「ではなぜあなたにそれを言うことを強制するのですか?」
「それを君から、君と一緒に知りたいから、それは我々が一緒にしか知ることができないものなんです」
彼女は考え込んだ。
「でもあなたがそれを知る程度がちょっと少なくなるんじゃありません?」
俺も考え込んだ。
「それはかまわないんです。あなたがそれを言ってくれなければいけない。あなたが一度だけそう言ってくれればいいんです」
「一度それを言ったらいつも言うことになりません?」
「ええ、そうなんです。それでいいんです」
表現されえないそのことだけを表現すること。それを表現されないままにしておくこと。彼女のギターの調べはその原則の上で成り立っている。しかし彼女がそれを意識しているのかどうかは分からない。
「わたしにはなぜあたしがあなたに答えないのか、今では分かるわ。あなたはあたしに質問していないのよ」
「確かにそうだ。俺は君に質問していませんね」
「それでいてあなたはいつも変わらずにあたしに質問している」
「そうですね。いつも相変わらずです」
「それであたしは答えることが多くなりすぎているんだわ」
「俺はそれでも質問を選んでいるつもりです」
「あたしは一つのことしか知らないとでも言うべきなのかもしれないわね」
「たった一つのことしか聞き取らないようにね。でも我々はそのことが同じことなのではないか?という恐れを抱いているのではないかな?」
「なぜです?疑っていらっしゃる?」
「いや、そうではないんですが、君はその時まで俺や世間の人を待たないのですか?」
「世間?」
「君はなにか秘密を持っているんじゃないかな?」
シスターによってでたらめに巻かれた腕を振り上げて俺は言った。もちろん、気分は陽気だ。 ほとんど無意味にゲイの誰もが時々、またはほとんどの場合、すべて同時に話している。
「今では秘密を持っているのはあなたのほうよ。よく分かっているくせに意地悪ね」
「それについて反省をしてみてもいいですか?」
「どのくらいかかるのかしら?」
「ほんの一瞬で終わります」
「あなたが反省している間、何をしましょうか?」
「もう一日が過ぎてしまいましたね。そうでしょう?」
「過ぎて? でもそれは誰にとってかしら?」
「我々が脱出してしまうときでしょうね」
君はどうする? ゲーム好き? どうだ? 同じ釜の飯を食った仲じゃない。五目並べは? ルールが分からない? 俺もだ。相互的な連想ゲームは? 脳細胞が減らないようなゲームをしようよ。
太陽がずっと向こうの地面に完全に隠され、気付くと蛍光灯のダサい光だけが教会を明るくしていた。まるでその光が無いみたいに俺も彼女も疲れていた。そして彼女はその光の中で吃驚した。
「そのときはあなたのほうももういなくなっているわね。あたしたちにとって」
「やはり君はよくご存じだ」
一種の抽象的弱さ、非常な多数という空虚な形体のもと以外には現前する能力のない概念が反復される。
「君の言ったことは全部あなたの周りに見えますよ。まるで君がそのなかに吸収されてしまうような誘われているような感じだ」
「あたしもそれを感じています。それは絶えず動揺しているわ」
「我々たちの言っていることは実際にそれほど空虚なものなのだろうか?」
魚の餌やり。他人といるといつも別の体に別の魂を無理やり詰め込まれてしまったような気がする。シスターが可愛らしいコーデュロイのワンピースに着替えたあと俺たちは教会を出ていって、さんざ舗道を歩き続けた。途中他人の家の木に生っていた見事な柿をシスターと俺で一つずつ拝借した。二時間ほど歩いたところで筆記体のネオン灯の看板が掛かった小さなケーキバーに半ば呆れながら入店した。
ケーキのスポンジは縞模様に、宝石のように大きな3粒のブドウはイチゴパフェやフルーツパフェの目を引く華やかさに、そして王道のセンスに、もうね、鼻から息を吐くような気分で「これはきっとすごい粒だ!」と勘違いしたくなるような足の下に配置し直したのは、おそらく運動不足のためだったのだが。
目覚めた瞬間から、例えばチョコレートパフェから得られる安心感のようなものまで、しかし、上部に高く積まれた紫色、このぶどうパフェは、そのようなことはなく、爽やかな酸味と旨味があった。生クリームとぶどう色の層が交互に重なっていて目立たないので、比較的安全な部類に入るが、その分太りやすいし、カロリーはどれくらいあるのだろうか? ということが気になってしまう。
食べたいけどね、秋のアンニュイな季節に食べるとどうなんだろう? 発見の季節でもいいや。秋の葡萄パフェ、630円。大粒の葡萄と紫のシャーベット。
チョコレートは自慢できるほどの実力がラベルに記載されておらず、カロリーの少ないパフェに負けるように見えたことで、唖然とするほどの不信感を感じた。
俺は500カロリーともっとまたは同じ量のポテトチップスを食べていたい。カロリーを隠したいということだ。ちょうどそれがバナナパフェの話やプルーストの無駄な文章のように、ウェイターを呼び止めるほど重要ではない話から単語をキャッチしていないと、それは決して低くないことを示すことにも、しまいにはレストランにおける負の情報を開示することにもならないのだ。
俺とシスターは向かいあって座ったが、道中であらかた会話の種を使い尽くしたんで二人とも黙り込んでただパフェを待っていた。俺の後ろの席でOL風の女同士が話しているのが聞こえてきた。
「そりゃそうやろ。わからへんよ。」
「倦怠やんけ。ぶどうパフェのカロリーを聞くんとか分かってるよ、意味ないの。倦怠からくんねん」
「あとで電車乗ろっか」
「乗ってどこ行くねん」
「わからんけど、どっかで降りよう。なんとかなるやろ」
「あのな、楽しいのスレッショルドが上がり過ぎてんねんって」
「スレッショルドって何?」
「スレッショルドや。基準みたいなもんや。ここまでいかんとおもんないみたいなもんや」
「そんなもん当たり前やん。色々やったら飽きるよ。そりゃ」
「それが問題やねんって。あのな、私のな、人生な、倦怠との格闘やねんやんか。でもな……」
「めっちゃ語るな自分」
「いや、ちょっと聞いて。若いころってそんなことなかったやんか。なんか無気力やってん。ごろーっとしながらテレビ見たり、今の私じゃありえへん退屈な生活しててもな、それでよかってん。でもな、大人になっていくやろ? そうするとな、なんかごっつあれやんか、おもんなくなるねんって、やっぱ。 今までおもろい思ってたことがおもんな! とか思うようになってるやん私! とかってなるとな、おもろくないとなんかアカンみたいになるねんて」
彼女はバーボンに浮かんだ氷の球を指先でくるくるとまわした。氷は真上から照明を浴びてプリズムのように七色の光を散らす。
「でもおまえ、男には興味ないもんな」
「そうやね、男なんてつまらない」
厨房の中には蟹のイラストが印刷された段ボールが山となって積みあがっていた。走り書きされたマジックインキの文字で〈全然力が入らない〉と書いてあった。
「でもええやん。そんだけ生きてるってことやろ。めっちゃ貪欲やんな。自分」
「せやねん。でな、文学の話あるやんか? めっちゃ見つけてな、『文学やー!』思うたんやんか。でも文学って終わってんねん。壁みたいなんのんがあってな、んでもうそこに到達してもうてんねんて」
「それ自分あれやんな。芸術全般そうや! って前力説してたよな。でもだいぶ前やで」
「せやねん! 同じやねんって。えー! なるで。ホンマ。だからもうあれやねん、なんか文学を信じるとかそんなレベルの話やねんって」
「信仰とかやん。宗教やん」
「ある種、そうやね。めっちゃ空虚やからな。文学て。例えばな、人生かけたとするやんか? 文学に。んでなんもなかったみたいなことが普通にありえんねんて」
「でもそんなもんあれちゃうか、少なからず色んな他のこともそうなんちゃうん?」
「でも学問はなんかやっぱあるねんて。いやな、別に極めんでもええねん。確立されたもんやから特化してったらそれはそれでええねんて。文学はヤバいでホンマ。なんもなかったー! ゆーんがホンマありうるんやんか」
「自分あれやん、こないだ相当酔ってたときに文学は自分の廃墟の上にしか建てられへんとか言うてたやん」
「覚えてる。そんな酔うてなかったよ。いや、ホンマせやねん。無意味さが分かってないとな、リアルでガチで無意味になんねやんか」
「せやったら分かってる自分はええやん」
「でもな、なんかごっつ不安になんねんて。なにやってんねん私とかってなんねん」
「なんか保証みたいなもんが欲しいんや?」
「まぁーそんなんかな。似てるかもなぁー。作品の存在を投影とかって言うと勘違いされるから嫌なんやけどな、でも存在ってそういうことやねんて」
「そんな感じなんか。ってーかそんな風になったんやんな。でも見つかってよかったやん」
「そういう安心感みたいなのがないねんて。めっちゃ不安やねん。グラッグラやねんて。土台が」
「いや、だから自分言うてたやんけ。土台がぶっ壊れた後にしか建てられへんねやったら当たり前やろそれ」
「せやねんけどな、でもなんかもうな、修行やで。無の境地に立って虚無の中で活動するとかそんな世界感やねん」
「どんな世界感やねんそれ」
「いや、無やねんって。虚体や」
「きょたい?」
「空虚の虚に身体の体で虚体や」
「へぇーそんなんあんねや。分からんけど」
「霊感や霊感」
「は? 幽霊が見えるやつの霊感?」
「それとはちゃうな。まぁそんなもんかもしれへんけど」
「んでなんなん?」
「霊感で書くねんて」
「わからん。それはホンマわからん」
「わからんかー」
「わからんな」
「すみません、こちら季節の葡萄コンポートパフェになります」
ウエイターが次々現れ、葡萄パフェ、ホットファッジサンデー、割れチョコブラウニー、ビール二本をやっと届けた。どれが誰のというのは無いので俺とシスターは適当に分け合って食べた。
「んであれやん、電車乗ってどこ行くねん。この後」
「どこでもええやん」
「どこで降りるかぐらい決めようや」
「そうやなあ」
「本屋行きたいわ。霊感で書かれた文学探してんねんって。探すときにも霊感がいるねん」
「もうその話ええよ」
「こんな感じやで。神の声っぽいねんな。お前は書いてはならぬ。虚無でいろ。沈黙を守れ、言葉を知ってはならぬ、言葉を知れ」
「どっちやねん」
「でもな、よく分からん天の声とかこういうの多い感じせえへん?」
「意味分からん」
「何も言わないために書くのだ。なにかしら言うために書くのだ。作品じゃない、お前自身の敬虔さ、お前に知られないものの認識。作品だ! 他人に求められ他人にも重要な現実的な作品。読者など抹殺しろ。読者の前でお前を抹殺しろ。こんな感じやね」
「完全にあれやん、電波やん。あんまそういうの言わんほうがええで」
「間に受けてないって」
「なんなんそれ?」
「頭の中で鳴ってたら病院行きやんな。いや、霊感かな? 思ってた本に書いてあった一節や。多分な、こんな感じで頭おかしいねん」
「せやろな。完全におかしいで。抹殺しろとか怖いし」
「やろ。続きあんねんて。真実となるために書け。真実のために書け。なんでもかまわない行動するために書くのだ。行動を恐れるお前だから書くのだ。お前の中で自由を喋るのにまかせろ。言葉の前ではお前の中に自由を許すな。やと。意味分からんな」
「ごっつい本やな。それ。見せて。うわー自分こんなん読んでんの?」
「読んでないよ。パラパラとめくってる感じやね。真に受けてたら頭おかしなるわ」