ヤクいぜ。

music

「ああ、そうですか」

もう誰にも何も言われたりしないだろう。虚空に足音が残響するだけだろう。産み落とされたコメントはいつだってどこへなりと消え果てることになる。それがどこに流れ着いたのかもう誰も知らないし、そもそも誰もそれを追いかけることすらしないのだろう。そうなってしまえばその分だけ、明るい未来への進展が望まれると考えるのが普通だが、それもそうではない。

「その通り」

「え?あってた?適当に喋っただけなんだけど」

「あなたの口によって紡がれる言葉は十分すぎるほどにRawであり、私はRawであるならなんだって十分に正しいと思えるわ」

「それはきっと、褒め言葉?」

「あるいはそうです。饒舌な時のあなたは輝いている」

そうらしい。言葉が訪れた次の瞬間、それをそっと、精確に、如才なく捉まえてみせる。彼女の前でそれをすることが大事だ。なにか素敵なものに導かれている感覚。楽しいことがやってくる瞬間の嬉しさ。人間、シンプルなもんだ。結局最も力強く解放された言葉の音はこんなところに落ち着く。当たり前に思えることの多さ、もっと正確に言えば拡がり、あるいはその大体の方向とそれが持っている角度、伸びやかであるかどうか、それがそれとして咲いているかどうか、繋がれた音と音が、もう二度と交わらないと思えるかどうか、ほら、もう足音が聞こえる、誰のって、あの、虚ろさのだよ。虚ろであること、それは記憶地点の妨害者であるかのように侵入する術を心得ている。防衛の工夫のない者にとってそれはあまりに強大すぎたので、国民は誰も彼も虚ろ、というのがわが国の惨憺たる現状でもある。

「こんなのはまやかしだ」

「どんなのがまやかしじゃないの?」

「それは、素直ってことだよ」

「これは素直じゃないのかしら?」

「うん、素直じゃないね」

「いえ、とことん素直よ、それがそれとして、響き渡る、とにかく染みわたる、あるがままにサウンドしていく、私が書いているのは小説ではないわ、言葉が喜んでいる音、そのものよ」

言葉が喜んでいる音、そのもの?それは一体何だろうか。第一、言葉に喜びなどないのであって、ラングの喜びということならまだしも、言葉の喜びということはまかりまちがってもありはしないだろう。

「いえ、ラングの喜びじゃないわ。これは言葉の喜びよ、その音よ」

「何が言いたいんだろう?」

「ラングだって、言葉の喜び以外の何者でもないってこと」

言葉、言葉、言葉、それがそれ自身を咲く、それがそれを戯れる、言葉が言葉自身を喜んでいる、言葉がそこにやってくる、音の並びに旋律を思い浮かべる、次から次に流れるメロディー、波に乗って運ばれてくる隆起と沈降、嗜めるような、ぞっとしない淡さ、出で立ち、言葉には今でもなお、残されているものがある。音に乗せて波打つ調べ、揺らぎのさなかに生まれおちる綻び、なめられたもんじゃない、手触り、次々浮かぶ心象、観念と手を取り合うただのラベル、群れ、互いに孤立し、おそろしく慎重に、ほとんど覇王のように飛ばしあう糸、関係するということ、関係が関係としてあるその瞬間の、解れた糸の結び目、生起するということ、それが起こるということ、どんな出来事にも邪魔されないのはそれが生起するということそのものだけだ。どうだろう?このことについて何らかの勘違いがありはしないか入念な検討が為される必要がありそうだろうか?

「いいえ、まったく!」

「私もそう思う」

一体どんな勘違いなら訂正されるべきだろう?生まれて、学び、季節が音もなく巡ってゆき、飼ってたペットと2、3度もお別れすればそれだけでタイムオーバーという歩みのなかで、

「これだけは勘違いではない」

と思えるようなものが見つかることがあり得るだろうか?最終的に辿り着かれる結論がとどのつまり「どれもこれも勘違いである」というのなら、結局あらゆることはそれだけで真理と言えるのではないだろうか?少なくとも、どんなことにもそれが真理に思われるような一面を隠しているところがあって、あらゆることはそれだけで、頬を薔薇色に染めたうら若き乙女なのではないだろうか?桃色の麗しき唇を上向きにつんと張った彼女たちひとりひとりのその美しさを、ただ飽くなき愛で愛でる、ただひたすらに、無限に、果てしらずに愛でる、愛で続ける、言葉というのはたったそれだけのことではないだろうか?

「あなたって、やっぱり饒舌な時の方がきらきらしてる。なんていうか若々しいわ」

「そうかなあ?」

「魂レヴェルでそう、と言えるわ」

「でもただのおしゃべり好きってことにならない?」

「素敵よ」

「そう言われたら、案外に本当にそうなのかもって思っちゃうよね……」

煩わしいことは抜きにしなければならない?煩わしいことはどうして煩わしいの?なにか煩わしいことがあるとすれば、それは命にとってではなく、その持ち主にとってだけだわ。命はなにかを煩わしいなんて考えたりしない。ただすべてがそこにある、それで終わりだわ。たとえ苦しみがそうなんだとしても、それは一つの深さの単位として希釈すれば結局、歴史の墓前の積石であり、命の内側に最初からあったものであり、小さな小さな粒状の、ぶつ切れのスパークであるにすぎないわ。ああ、煩わしい、退屈、煩悶、呵責、寂寥、恥辱、疲労、不安、恐怖、苦痛、いえ、どれもダメね。どれも粒状のスパークで、大きな大きなゲルの、内部の気泡の破裂でしかないわ。命の前に、世界そのものの前に、それがなんだというの?苦しむときは、苦しめばいいわ。楽しむときもそう、どちらにしたって何もかもはおのずとそうなるんだし、辛さの前に、悦びの前に、どんな高邁な思想を紙切れのように投げ捨てたって構わない。それは結局、そのようにある、ということでしかないんだし、そのように命の深さを楽しむ、そのように宇宙の可能性を自分なりにコレクションする、そのように戯れの在りかを探り当てる、どんなふうに表現したって構わないけど、どんなふうなそれだって戯れとしてしかあり得ないんだから、こんなものはおべんちゃらよ、スポーツであると同時に緘黙であり、手遊びであると同時に瞑想よ。後に残されたもの、紡ぎあげられなかったもの、手のひらの上からこぼれ落ちたもの、それがなんだというの?そんなもの、ティッシュ・ペーパーほどの値打ちもない、この宇宙のどこへなりとでも消え果ててしまえばいいわ。

「君、分かってきたよ」

「仲が良いだけよ」

「次のとこから撮っていい?動画にしたいんだけど」

「いいけど、ひとつ指示があるわ」

「どんな?」

「わたしが喋るあいだ、わたしの手だけを撮ってほしいの。それと、腕もね」

「オッケー、それでいこう」

「素っ頓狂なこと言っちゃわないかしら」

「大丈夫だよ、君ならそんなことにならないと思うし、もしなりそうになったら僕が軌道修正する」

「どうしてこう思いつき任せなのかしら」

「なんでもそうだったろ、人生出たとこ勝負────!」

この価値観、ほろ苦い潤み、鈴鳴く虫の翠緑色、光りだす機械の電熱線がブゥーンと動き始めた。見た紹介の窓口からやけに静謐な女、どこの誰だろう?水辺に宿る紫の貝殻、土くれ、岩盤、凭れるほどもない背にべっこうの匂い、同じ便りへ落ち着く瓦、枕木、安心の林、花一匁、手に取る泡の亀裂がいざなう水色の眠り。剥がれる氷柱、町全体の呼吸、腰を落ち着ける切り株、90、どことなく隔たり、脳のソース、明日また、薬指、二つで一つのペンダント、中指、精神病棟の老婆、しきりに破音する、顔のない影、あり得る面、なしくずしのひとひら、遊泳、散歩道すがら、思わしげな三面重、団重、秤にかけられた喧騒、戯れ、戯れ、箸隠れ……

「いい感じ」

「そう」

「もっといける?」

「この手、撮っててね」

走り出す蛍光灯、がむしゃらな夜輪車、音のない透屋、怒った顔の馬、赤い日傘が空を捕まえて飛ぶ。蟻の挨拶、目の奥の格子、茶壺三寸、陽のなかの玉、訪れるお歌、木阿弥、オルガン、逆さの青白いハート、誰が誰だったのか?ひらっと返すパンプス、踵の電流の一本化、巨大樹、景色が潰れる吐き気、アフロヘアーであること、闇の針とけたたましい電話、透明な白が投げるルーム、こまやかさ、草臥れた旅人、ああ、友よ、マリファナとワイン片手に、海辺へ憩おう!

「ああ、もうダメ」

「友よ!」

「もう上がっていけないわ」

「友よ!」

「これ以上、いらないのね」

マリファナとワイン片手に!」

「阿片とヘロイン片手に」

「海岸へ!」

「ゆらめく影へ」

「海岸へ!」

「はしゃいだ舟へ」

「むこうの、岸へ……!」