ヤクいぜ。

好きです

好きです。わたしと一緒に問題を解決したり、それが解決しない場合もありますが、特に上手に解決する場合もあり、たとえばそんなときにわたしと一緒に喜んでほしいです。わたしは問題を解決するのは得意ですが、喜ぶことはあまり得意じゃないので、二人になることで喜ぶことに対して苦手意識をなくしたいと思っています。問題が解決された場合、そのようにわたしと喜んでほしいですし、問題が解決できなかった場合でも、それを頭から喜ぶというのはなんだか本来の手順を踏んだ場合の喜びをいささかこき下ろし、減退させるような気がするので、問題が解決しなかった場合に、その事実そのものを、解決不能ということそれ自体を喜ぶというのはまずない、ないだろう、もしそうだとしても、たとえばその先の二人の試行錯誤、たび重なる苦労の果てに結局の所問題の解決が見えているということや、そこに本来的な手順での喜びが見出せるということや、いまやそこに向かって勢い勇んで歩を進めればよい、よいのみだ、という単純な事実に、事実の単純さに、先んじて喜びを見出す、未来が確定している、あるいはそれが不可知である、予測がたたないということであっても、未来が暫定的にわたしたちに向かって近づいてきており、それがだんだんと鮮明になって、ともすれば予測があたってしまうのではないか、そうでなくとも、未来がわたしたちを待ち受けている、そこに問題の解決や、喜びがあるかは分からないが、ともかくどうやらありそうで、それが近づいてきている、ということにいささか早まった喜びの訪れ、福音のベル、朝日が昇る前にまず地平線を満たす光線、そんなものを感じて、そうした緩慢で過不足のない喜びの近づき、喜びそれ自体ともう全然区別できないその足音、それを感じて、感じて、抱きとめて、溢れかえって、散らばることなく広がって満たされる、それを感じて、もはや目の前の問題であるとか、その解決不能であるとかに、またはそれが呼び起こす、というよりも、呼び起こされる当のものが、その親であるそれを我々に問題と呼ばせる訳ですが、そうやって問題から呼び起こされる数々の不満、疑念、汚辱、焦ったり、羞じらったり、涙が出そうになったり、胃の内容物を吐き出しきってそれでも嘔吐をやめない酒飲みのように何もかも空っぽになるまで投げだしたくなったり、そうさせるような数々の罪悪、嫌な感じ、悲哀と憤懣……こうしたものを感じずとも済む、済んでしまえる、そんな運ばれ方、これは人生が生まれてから福音の汽車に乗るまでだとしてのことですが、そんな風にわたしと運ばれていきたい、そんな風にあなたにも思ってほしいです。運命の汽車に、ついにわたしと、あなたと、星と、言葉と、関係と、呪術が完成するあの、かの、汽笛、ああ、どうしようもない、福音、なぜ?どうしてどうしようもない、途方もない、強くて強くて敵わない、まるで私が将棋の駒の歩で、まさに一歩一歩、おっかなびっくり、ためつすがめつ進んでいるようなときに、あの獅子奮迅、東奔西走、すごい、ああ、あんなに恐ろしくて、崇高で、何より強大な敵の駒を見事打ち倒し、奪い取り、今度は同じ陣営で野戦食を囲んでしまうようにしてみせる、あの角行、飛車、あの、高い、高い、王様なんかを見てるような気分と同じものを、わたしとあなたがあの汽笛に感じたりするでしょう?それでも汽笛は鳴らなかった、汽車は来なかった。などというつもりでしょうか?そういう感覚が、ああ、あなたにも、いったいあなたのどこにそんな感覚があるのでしょう、そんなものは切除されなければならない。その感覚を、感じる部分ごと、わたしが毟り取ってあげたい、そうした気分です、ええ?なぜ、ああ、終わりに近づいているのですか?汽笛は鳴らないのですか?ああ、なぜ?汽笛は本当に鳴らなかったのですか?この世でたったの一回も?ああ、汽車なんて、本当は来ないのですか?ああ、嘔き下したいことがこんなにも溢れかえって、わたしは何を待っているのでしょう?人はただの子どもで、世界はただの星ですか?あれとこれはもうこれ以上違わず、手足がもつれるのと壁に穴が開けられるのと、どちらがいいのか、もう全然わからないですか?何も判然としない、思いつかない、自分を釈明できない、ああ、駄目ですか?もしかして、こんな悪党にも善人と同じように、一日一回夜が配られているなんて、思いもしなかったですか?そうなんですね、ああ、数えられたピースは、どれも釈然としない。嵌まることはない、それと呼ばれたものが、あなたを納得させたことがありましたか?それと呼ばれていないものが、あなたの手の中に維持されたことは?頭の中から寄生虫を追い出して、代わりに茶色い薬湯を流し込んでしまえば、わたしはわたしでいられなくなりますか?

 

「さあ、どうなんでしょう」

 

「問題は解決しますか?これが取り除かれることはありますか?ねえ、お願いします、答えてほしいんです、わたしは安心を求めている」

 

「わかります、その気持ち。わたしもかつて、同じことがありました」

 

「ああ、よかったです。さあどうですか、問題は解決しますか?わたしの問題が解決されて、わたしに喜びが訪れる日は、もう一度子ども時代に戻れる日は?福音は?汽車は?」

 

「一度にお答えできることには限りがありますが、問題が解決するか、ですか……それは本当に難しい。実際のところ、その手の問いに答えを出せた人間は、この長い歴史のなかでも片手の指で数えられるほどしかいないんです」

 

「ええ、ええ、だとしたら、あなたはその指の一本に含まれますか?今そうでないとしても、今後、いえ、そう長くは待てませんが、いつの日かあなたがそうなるということは?」

 

「それは残念ですが、今のところお答えできません。これは本当にわたしにとっても口惜しいことなんですが」

 

「分からないんですか?」

 

「分かりません」

 

ねえ、どうなんですか?そこに誰がいるんですか?もう落としものは、見つかりましたか?それともまだ枯葉のなかに埋もれていますか?こちらはまだ、煙、クレパス絵、ランプシェード、濡れた犬の匂いがします。日々はどうしても、ごく穏やかに始まらざるを得ない。新たな一日は、そうっと、いたわるようなたおやかな手つきで星を揺り起こす。どうですか、わたしの告白はあなたに届きましたか?わたしはあなたのことが、本当に本当に好きなんです。あなたのことを考えるだけで、感覚がほとんど狂ったようになります。ああ、わたしはもうおかしくなってしまったのでしょうか?もう駄目なのですか?もう治らない、正常と呼ばれない、しきたりとなった仕草、間埋め、表情、話しごと、ウインク、口伝、愛する、信頼を吹き込む、もうこうしたことも、できない?駄目なのでしょうか。その傷は汽笛が回復しますか?汽車はやっぱりもう本当に来ないのでしょうか?ああ、千切れる、途絶える、朽ち落ちる、蓮の葉、茄子のへた、こうしたものに憐憫を抱くのはなぜなのでしょうか?問題が解決しますか?それは茄子のへたと問題が、いつのひか交わるということでしょうか?ああ、わたしはもう、本当に駄目なのですね。野暮らしの荒くれの牛追いすら使わない、人跡の絶えた朽ちた山小屋や、どこかしらの人間文明よりも天空の方がよっぽど近い放牧地で、「ああ!」と叫んで走りまわる。疲れたら止まり、また走り出して叫ぶ。限界が来たら銃で刑死したように眠って、起きると気が触れたようにいつまでも叫んでまわる。そんなふうに生きるのがわたしにお似合いでしょうか?狂気には奇行がお誂え向きというわけでしょうか?いえ、わたしにも人格があります。わたしはすべてのパイオニアで、それは大胆さと恥じらいのパイオニアであり、おしゃべりと沈黙のパイオニアなのです。わたしがこれまでどんなふうにでも、あなたとの約束を破ったことがありますか?あなた、ひょっとして何もかも忘れているんじゃありませんか?あまりに多くの物事を無視することに慣れきっていて、重大な物事を簡単に無視することの快楽にあまりに浸りきっているせいで、わたしの重大さ、素晴らしい場所に素晴らしい魂があるということ、世界に祝福されているようなフィット感、この奔流、戯れ、健気さ、馬鹿っぽさ、数々のボロ、綻び、それに続く恥辱、修正……もしも、あなたがわたしを無視するのであれば、それは、あなたはこの星を無視しているということなのですよ!いえ、大言壮語で煙に巻くつもりは毛頭ございません。しかし少なくともあなたはこの地球の、慈しみ、可愛がり、その背中を撫でてやるべき事実、沸き起こって溢れかえり掻っさらわれる、すべての出来事を無視できる、無視してしまえる、ということですよ。これはどうにも確かなことなのです。