ヤクいぜ。

Lightheadednessその1

「最も深刻で深遠な問題や疑問や課題は、ユーモアの形でしか論じられない」

 森影が静かに過って、朝の平穏の中、階段口から海の方へ動いていく。そっちへ目をこらした。磯の近くと沖合で海面の鏡が軽やかな靴を履いて駆け上がる脚に踏んづけられて白くなる。翳りの海の白き胸。絡み合う強勢、二音ずつ。手がハープをかき鳴らし、絡み合う和音をかき混ぜる。波白の結ばれた言葉が翳りの潮にゆらめき光る。雲がゆっくりと動いて、太陽をすっぽり覆い、湾をさらに濃い深緑に陰らせた。目下に広がる、苦い水を湛えた器。

 あー、そうか、なるほど、この感じだ。この感じをキープ。なるべく掴み続ける。掌握。このビールと一緒だ。このくらいディープな精神世界に降りていって初めて必然性うんぬんも自ずと引っ付いてくるって寸法。いや、違うな。うーん、やはり合っている?合っている文章を書くことは可能ですか?ファック、とっちらかってきた。どっちからきた?再び執着を棄てるときだ……。たとえば次のことを思い出そう、つまり、俺の意識に登ってくるに値する物などもう何もない。この世に注意すべきものなど何もないということにだけ、注意しているべきだ。ああ、思慮分別がどっかにいっちまってる奴とだけ会話がしたい

「あの快楽を知らないのか?この快楽も?おいおいまさか。本当にどれもけっこうエゲツないんだぜ。お前がやってないなんて損だ」おっさんかババアが言った。

「それは一旦無視する」

 男はゆるやかにさっと立ち上がり、ステージに躍り出て、庭に除草剤を撒く感じで、なんていうの、睥睨? とにかく周囲を睨みつけた。まあその男ってのは俺ね。男って書いた方が小説っぽいからさ。まあ俺じゃなくても誰でも良いわけだけど、とにかくその場合にも書面上は男ってことで。えー、それでその男の目の先には大勢の観衆、観衆、観衆。クラウド。オーディエンスは手に手に家の台所から取ってきたコップを持ち、その中にはアルコールが入っている。男はこいつらは馬鹿だなと思いながらその睥睨を終え、走り出し、つるつるっと黒光りするアップライトピアノの天板によじ登って座ると、踵とつま先で演奏を始めた。確かコード進行はこんな感じ……Am、G、C♯△7……このループをうんざりするほど続けたあとにフィナーレでE♭7を可能な限り鳴らし続ける。オーディエンスはジョークだと思って男を笑う者、肩透かしを食らって憤慨する者、シラけて帰りだす者、高額なチケット代、あるいは宗教上の理由からそれでも終わりまで見届けようとする者、内心密かに感動する者、色々だった。

 演奏が終わると残った客の数から予想される量のおよそ5分の1くらいの拍手の音が聞こえ、男は恭しくお辞儀をしてエスカレーターに乗って退出した。

「で、これが全部混ざっているスタッフ。うん、車に戻ったらコカインも渡すよ。今渡してもいいし、トイレでやってもいい。バイザウェイ、家に帰ったらどうする? 」

「俺の才能の無さは議論の余地のない事実として、でも我々は自分の宇宙ができるだけ満たされることを望むべきじゃないのか?つまらなさってのは空っぽの個人的な宇宙だろ。認識ってのは一方では自己があり、他方が入り込む前の広大な空の孤独な空間があることに気づくことだろ。ようは一方では自己を発見し、他方では他者が全く入り込むことのない、広大で空虚な孤独の空間であると認めることだよな。自分の中が空っぽであればあるほどそれは悪徳だよ。悟性なんて知ったこっちゃない」

 ユーモアには苦痛からの逃避を促す力がある。

「したらば、眠れるように煙草を渡すし、そしたら奇跡が起きるかもね、自分一人で一日乗り切れると思う?

「多分今日は大丈夫だと思う」

「祈りなしでってこと?面白いね、祈ってる?」

☆☆☆

 僕は家に帰ると冷蔵庫からサラダの入った青い沖縄ガラスの深皿を取り出し、瓶の底に5ミリほど残っていたドレッシングを空になるまでふりかけた。トマトといんげんは影のようにひんやりしていた。そして味が無い。クラッカーにもお茶にも味はなかった。我がベッドは憎むべきパンイチ女に占拠され、パンイチは英訳されたマルティン・ヴァルザーの小説を読んでいた。

「ここの『great deal with glass』ってどういう意味?」

「素晴らしいマリファナの取引って意味じゃない?」

「だとしたら、唐突すぎるわ」

「じゃあ多分、生い茂った緑とかなんだろうけど、でもそこは誤読でいいんじゃない?唐突にマリファナの取引が始まるみたいな」

 俺がここにやってきたのはあなたを壊滅から救うためです。多分、お前は俺のことを頭のいかれた奴だと思ってると思うけど、もしくは白昼夢でも見ているのかと思っているかもしれないけど、俺は狂ってないし、これは白昼夢でもない。きりぎりに真剣な話なんです。

「でもこの小説にマリファナの取引を出すなら、物語の内容を一から変えなくてはならないですが」

「何故ですか?」

「そうしなければ、辻褄が合わないわ」

「だったら辻褄っていう概念が古いんじゃない? 順序とか一貫性とか、全部時代錯誤の眉唾ものだよ」

 なぜ人間には性格があるのか?それはつまり、一秒前の自分と同じ振る舞いをしていたいって奴が大勢いるからってところに落ち着くわけだけれど、一貫性がある状態って理性にとって悦びであって、まあつまりどこもかしこも馬鹿面のオナニー野郎が充満してるってあたりで結局厭世的な感じで終わるんだよね。

「それはそうかもしれないわ」

「逸脱もそいつにとって予想される範疇での逸脱でしかなくて、結局オナニー野郎って自分としか生きられないんだよね」

「他人や世界と交じり合えない?」

「そう」

「あなたはどうして私に色んな事を教えてくれるの?」

「実際に何かをしなければならないと思ったからね」

「え?つまり、好きってこと?」

「まあ、そうかもね」

「それが重要だと思ったんだ」

「え?どういう意味だ?」

「恥をかかないといけないんでしょ?」

 それは一種の侮辱であり、だから想像を絶するものであった。そのかさは一人の人間にまとまっていて、その人間が次の爆発に耐えることができるのだろうか。思い出は、あの人……名前は? この瞬間? 今か? この瞬間?

「本当にこのままでいいのかしら?」

「そんなのわかるわけないだろう」

「でもそれじゃまるで放り出されている感じで、基盤が無さすぎるって感じられるのはどこか矛盾しているからなのかしら?」

「あんまり言ってることが分からないけど、多分、なんとなくそうなんじゃない?」

「凄く無益な会話」

「だね」

 水が水であったのか、ただの水を飲むというフリじゃなかったのか、ということを言いだすと会話すらも会話するフリをしているだけで、実は何も喋っていないのかもしれないということを考えると、自分も彼女も知らないうちに誰に頼まれるわけでもなく演技をしているということになる。この水飲みごっこはいつから始まったんだ?でも水は確かに飲んでいたからごっこではなかったんだけど、でも凄く作為的な感じがした。

「一人というよりかはお互いで何かをするという感じで傍観者でありたいものだね」

「離れ離れになったときにそれはどうなるのかしら?」

「いや、どうにもならないんじゃないか。傍観者が一人減るだけだ」

 象徴はそれを虚構の中に捕えて感じられるものにするのだが、その虚構のテーマは虚構が虚構である限り実現されることのない努力である。しかしこの彼女の脚の現前性は小難しい話をすっ飛ばせる絶対的な美がある。どうなんだろう、形而上学はこういう絶対的な美を前にするとひれ伏すしかないというモチーフは?

「何かが?」

「ええ、今、僕はここにいるからね。綺麗な脚をしているなと思って」

「そう?」

「なんていうか変な出会い方をしたと思うんだよね。なんで人間に性格があるかってことさ。一貫性があってそこに享楽するってテーマがもう古臭いと思うんだ」

 僕は彼女を見ずに話を続けた

「ではファンクネスはどこにある?見出すものなのか見出されたものなのか。量的なものであったりパラメーター的な問題ではないよね」

「ヴァイブスでしょヴァイブス」

 彼女の脚を愛でようとしたら頭を蹴られた。蹴ることないのにと思った。どれだけ美しい足だろうがその足で頭を蹴られれば痛い。いやまあ美しくない足に蹴られるよりははるかにいい……というか蹴った時のインパクトからも力の伝わり方が普通の脚とは違うのが分かる。それはもう本当にファンタスティックとしか言いようがない。頭を蹴られたということは俺はしゃがんでいたということなのか。あんまり覚えてない。衝撃は凄く鮮明に覚えている。

「あなたは頭をその美しいおみ足でお蹴りになった」

「そのとおりですわ」

 彼女は一瞬沈黙した後にこう言った。

「こうしたことは曖昧なままにしておかないほうがいいと思っています。つまりわたくしはばらばらになった感情などと言うものを知りませんし、それにあなたの世界の中で起きていることには関心をもっていないのです。脚が相当お好きなようですけど、そういった観念世界には全く興味がありません」

「あなたがおっしゃったことを正確にあなたにお返しできなくて残念です。さすがに蹴ることはないだろうと思いましたがね、でもたとえ僕がここに留まってあなたの脚を賛美しようとも、あなたはそのことを苦痛に思ったりはしないでしょう。むやみに触ったりはしませんから。それに今からはこの点に関しても素直になってください。僕が本当にここから出ていくことをあなたは望んでなどいないのではないでしょうか?たとえ僕がただにち遠くに、これ以上ないほど遠くに離れたとしても、あなたは安心したりはしないのでしょう?どこからでもあなたの脚を崇拝できる。それが真のフェティストというものです」

 これには彼女も面食らった様子だった。彼女は少しの間、夢を見ているようだった。夢がフィードバックしたのだろう。精神世界の原理無きフィードバックの振る舞いはカオスそのものを表している。全く関係ない観念が別の観念と結びつくこともあるし、それは時代や時間、場所といったものを問わない。情報は空間に無制限に存在している。

 それでも美しいと思ったものを愛でようとするのは人間として当たり前のことなのではないか?むやみに触るべきではないのはセンシティヴな美術品と同じだとしても、愛でようとする意志が間違っているとは思えない。彼女の美は彼女から分離しているようにも感じられた。彼女がそれを持て余しているのか、でも姑息に利用するよりかはいいのかもしれない。

 彼女の美脚の模倣をどう表現すればいいのか?美しすぎるものに感染した場合のミメーシスの方法はどういうものか。そもそも彼女の脚に感じた瑞々しさが、コップの水から来ているのは言葉の響きだけではないはずで、なぜか透明で青いイメージが頭にあるのも、あのコップの水の模倣なのだろうが、水は無色透明なはずで、だとしたらこのブルーのイメージはどこから来たのだろうか。事後的にこうやって考えてしまうのも、彼女がいる前ではコミュニケーションに全力を注いでいる証拠で、自分は健気だと思う。

 いや、どう考えてもおかしいし、そこまでガチで「脚フェチの変態」と思われるのもヘコむ。しかし彼女がそう感じる以上はどうしようもないし、むしろ変態だと思われてるおかげで素晴らしい足の持ち主とお近づきになれたのだからこれもう断然得だと言うしかない。

「何が起こるのかしら?」

「さあ、分かりません」

「上手に言えないのね。だってあなた、上手に言えるということはどういうことなの?そうでしょ。あなたは上手く独白をやるけれども、一転して喋るとなるとキチガイなんですもの。そう装ってるのだけど。でもどちらだって同じことでしょ?違って?」

 彼女の饒舌は永遠に続きそうでまた無限のイメージに取り込まれそうになったので何か喋ることにした。

「違わない」

キチガイだということは全く下手に言っていることですものね。もっともせめてもっと積極的に何か言えばいいのだわ。その代わり貴方は庭の大きな松の木のそばの砂場にいて、蟻が樹の幹をのぼったりおりたりするのを眺めたり、原語の聖書なんかひもといて「男の肋骨から生まれたもの、汝は女なり」といったような文句を口ずさんだりしているものだから、もうこれはハムレットよね。独白となるとなかなかのことをやってのけるのではないこと」

 ドアが閉まる音がした!グラスに入った氷が一人で動くときのような音を立てて白色灯が消えた。

「僕もそう思っています」

「あたしはその男のどこの骨にしろそこから女が生まれたというのは感心しないわ。でもあなたが彼に言ってもらいながらあなたもそれに倣う形で言うようにすることは素敵ではないこと?ちょっとこれはハムレットに似ていないこと?アリが樹をのぼったり下りたりするのを見てこんな文章を繰り返すのは何ともなく愉快だわ。アリだって!アリが何の関係があるというの。何もないわ。それともあったのかしら。あたしは好きだわ、その態度と方向性が、誰は見たってそんな彼はここにはいるわけはないけど。あたしはいないと思うわ。あなたが作り出したものよ」

「恐らく反芻したのだと思いますよ」

「そうよ。その通りなのよ。だからこれは作者のミスね。彼を探すことにしても待ち続けることにしても、あなたのモデルとなった人を苛立たせたのよ。あたしはそのことが手に取るように分かって大変愉快なのよ。ところがどうでしょう。あなたはもちろん咎めてなんかいないんだから。あなたがどうして咎める必要があるのでしょう。誰かの幸せそうな日々を羨んでいるということでしょうか。あたしはそうは思わないわよ。あなたは人並みの幸福をとっくに手に入れているって自覚していますものね。こんなことはどれ一つとしてとは言わないわ。だけどそのことを咎めているのではない。それでなかったらどうしてこの場面があんなにヴィヴィッドでそしてあなたがイメージについて思い続け、とうとうの彼の教え子でもあるサラリーマンが町を襲撃した後でこの家の家政婦に住み込みこの窓の中であの日々の場面を再現しようと思うでしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

ピストン運動……単純な作業の繰り返し……それは苦痛が最初から織り込み済みであるにも関わらず……他人がそれに同意するとき……僕やあなたはとうとう存在の浪費を浴びて承認を得る……つまりそこには根底的に摩耗があり……新たな苦痛はすでに封切られている……