空がインドの一番汚い街に住んでるヤギのマンコのカスに見えたとき、僕は自分の精神状態が悪化しているのを悟った。さいわいテーブルに安物のブランデーがまだあったので、頭の中でどうにか朝をやりすごすプランを組み立てる。とにかくまずソファに座りこんで酒を飲み、そして部屋中のカーテンを閉めよう。とにかく今は光を見たくないからな……。それから頭痛薬と鼻炎薬と胃腸薬をいい感じに飲んで、このクソみたいな体調も良くしよう。あとあれだ、少し窓を開けよう。この部屋はあまりに埃っぽすぎるからな。もし今決めたのが全部実行できたら、僕は相当に大した奴だな……。
まずブランデーをラッパ飲みし、いい感じの酔いを得てから僕は部屋中のカーテンを閉める作業に取り掛かった。これは難航した。碌に眠ってないせいで足元がフラつくうえに、僕の部屋にはカーテンが六枚もあったからだ。部屋中あちこちをうろうろして、やっとこさ全てのカーテンを閉めきった僕は再びソファに深く座り込み、ブランデーを一杯やりながら、黙って天窓を見上げた。絶対に手の届かない高さにあるそれはどの窓よりも燦然と光を取り込んで、明るくまぶしかった。
「…………」
まるで蠅が蠅叩きを眺めるようなばつの悪い表情で天窓を見上げる僕の眼に、一瞬淀んだ光が走った。自殺してしまおうか……。僕は浴槽に水を溜めはじめた。さっきまでフラついて頼りなかった足は己の能力を訂正するように力強く大地を踏みしめて歩き、正確に僕を運んだ。風呂場のオレンジの光に辟易しながら、冷たい水をどんどん溜めていく。水の稜線が高まっていくごとに、僕の命は急速に減っていく感じがする。僕はまるで死にかけの草食動物のようだ。腹が破け、そこから長い腸がイヤホンのコードみたいにだらしなくもつれて垂れ下がっていて、誰の目にも明らかな形で生命の終わりを迎えている草食動物。膝を折って、身じろぎ一つしないで、何かを悟ったようにじっと一点を見据え、狩りの成功に沸き立つ肉食獣の群れにじわじわと体を食べられるのを待つだけのガゼル、インパラ、あるいはシマウマ……。僕の命はもう減っていっているのだろうか? どうだろう。浴槽が満ちていくごとに、刻一刻と死が近づいていて、これは死の水だという感じがする。だが僕はまだこうしてピンピンしている。しかし確実に死は迫っているのだ……。僕は不思議な気持ちがした。今の僕の命は、ライオンに殺されるシマウマのように、漸変的に無くなっていっているのだろうか? 確かにそんな気がするのだ。しかしその一方で、まだ僕の腹は破けてもいないし、そこから腸が赤いプレゼントのリボンみたいに飛び出してもいない。一体どこからが命なんだろう? 僕はほとんど何も分からない気持ちで、浴槽がいっぱいになるのをじっと待った。オレンジの光がそれを照らした。
じきに満杯になった。僕はナイフを用意し、ありたけのコートを着込んで水に浸かった。こうすると万が一自殺の途中でやっぱり生きたくなっても、水の重さで脱出できないから成功率が上がるというのをネットで見た。まあ要は願掛けだ。恐ろしく切れ味の悪い包丁が、風呂のオレンジ灯を反射して死の光を発し、それが水の上で震えた。僕は刀身をぐっと手首に押し当てた。いつもタマネギを切っている刀身が僕の肉に触れると、僕もタマネギの一種だという気がしてきた。しかし押し当てるだけじゃなかなかうまくいかなかった。このナマクラが。無理やり前後に擦ってみる。尋常じゃない痛みで目がチカチカした。小さく喘ぐ。何やってんだ僕。また擦る。宇宙に近付いた。今度は押し当てる。また擦る。するとぷつっという音がマジで聞こえて、そこから血が一条、また一条と滴った。心の中で自分への同情が動いた。浴槽に血が雫めいてこぼれて、水中で赤い煙のようになっていく。理科の実験。自分の身体が唐突に恥ずかしくなる。結局、羞恥も真理もひとりよがりさっ。さらに前後に擦って、血が溢れてくるのを待つ。同じような会話。同じような声。ある夜、君の部屋に行った。あなたは一人だった。はい、その通りです。明滅が赤い。ばーか。うるせえうるせえ。サッカーしようぜ、全部どうでもいいニャン。死のうが生きようが同じことじゃないか。
そのとき
ドアがバンっ、と開いた。
「君、何してるの?」
そこには
初音ミクがいた。
「って、ミクたん!?」
僕は大急ぎで風呂を出て服を着替え、突然の来訪者に相対した。その間手首からは血が洩れっぱなしだった。
「怪我、してるの?」
「ああ! ごめんねミクたん、これは別になんでもないんだ、その……ただ自殺しようとしただけ」
「自殺って?」
「大したことじゃない、えっと、睡眠の延長だよ」
ミクたんは「そっか」と言って僕の血がどくどく出てる手首を優しく握った。うほお、あのミクたんが僕の手を……!
「と、と、とりあえずミクたん、立ち話もなんだし、ソファの方で話そう? お願いだから。あ、そこ、床がフランス料理みたいになってるから気をつけてね」
僕とミクたんはソファの方に行った。
「それでミクたん、今日は何の用?」
「実は、用事は無いの。あなたに会いたくなって……」
「え、ええ!? ミクたん、それってどういう……」
「どうもないよ、そのままの意味」
僕とミクたんのまなざしが交差する。そのあいだも僕の血は垂れっぱなしだった。
「そのままって、そのまま……?」
「そう、そのまま……」
僕とミクたんの距離が近くなる。そのあいだも僕の血は垂れっぱなしだった。
「それってす、す、好きってことだよね……?」
僕は再三聞いてしまう。野暮と分かっても止められないのだ。あーもー誰か僕をヘタレと罵ってくれ!
「そう、あなたが好きなの」
「ミ、ミクたん……!」
感激で涙が出そうだ! あのミクたんが僕のことを好き!!?? あの学校のマドンナで、優しくて、品行方正で、歌って踊れて、アイドルを目指してて、いつも元気で、笑顔が可愛くて、目がぱっちりしてて、ファッションセンスがよくて、将来設計がしっかりしてて、看護師で、メイドで、スチュワーデスで、ミニスカポリスで、チャイナっ娘で、吸血鬼で、いつでも僕に微笑んでくれる、あの超絶美少女ミクたんが!!?? そのあいだも僕の血は垂れっぱなしだった。
「……あなたは」
「……」
「……あなたはどう、なの?」
ゴクリ、僕は生唾を呑む。
「ミクたん、僕は」
僕は血が垂れっぱなしの腕で汗を拭った。
「僕は、君のことが好きだよ」
僕は言った! これでもかなり勇気を出した方なんだが……。
「ほんとう? 嬉しい……」
ミクたんは滂沱と涙を流して言った。
「ほんとうだよ、ほんとうだ……」
僕は血が垂れっぱなしの手をミクたんの手に重ねた。ミクたんは静電気のように一瞬びくっとしはしたが、僕を受け入れてくれた。僕の手の中で、ミクたんの手が震えていた。
「……ん」
ミクたんが目を閉じて顔をこちらに差し向けた。こっ、こここここれは!!!??? まさかあの、恋人同士でしかしないチッスという奴でつか!!!!???? 落ち着け俺よ……。
「ミクたん……」
僕は血が垂れっぱなしの手でミクたんの肩を掴んだ。ミクたんが小さく「んっ」と喘いだ。それでもミクたんは目を開けようとはしない。僕はこの唇にキスするのか……。でも今までキスなんてしたことないぞ、一体どうやってやれば……。当てさえすればいいのか? いやでもしかし……。もし軽く触れるだけのキスをして僕が子どもっぽいとか思われたらどうしよう? そうなったら終わりだ……そうなったら自殺しよう……。よし、決めたぞ、ここは大人のキスを見せつけてやるんだ。男の子側がリードしなきゃな。思い切りし、し、し、舌を入れてやるんだ……よし、いくぞ……。
ちゅっ、れろれろ……
「ぶっ!!!???」
僕は唐突に何かに殴られ、あまりの衝撃に目をチカチカさせながら前を見た。するとそこには怒髪天を貫く勢いで怒っているミクたんがいて……
「そこまでしていいとは、言ってないでしょ!!」
「ごっ、ごごごごごめんよミクたん!!!!!」
僕は両手を合わせてミクたんに傅き、謝った。そのあいだも僕の血は垂れっぱなしだった。
「うーっ、……まあ、もう二度としないなら、許してあげる」
「えっ!? もう二度と!? そんなあ……!」
「やっぱり反省してない!」
「ぶべっ!!!???」
またミクたんに殴られた、あまりの痛さに失神しそうになるのをギリギリのところで堪えて、僕はミクたんにDOGEZAした。
「ごべんよミグだああああん……」
「……っ。は、反省はしてるようね。分かった。じゃあもう許してあげますから、そんなに泣かないで?」
ミクたんは微笑んで、首を少し傾げて、母親が自分の息子にそうするように、僕の頭を撫でてくれた。ミクたんがママだったら、こんな感じなのかな。ちくしょう、息子が役得すぎるだろ! 裏山けしからん!
二人は微笑みあってしばしの歓談を共にした。部屋の中はひどい血のにおいがまるで見えない壁のように溜まっていた。
「あ、そうそう、これブランデーなんだけどミクたんも飲む?」
「え、いいの?」
ミクたんと僕は酔っ払った。
「えへへ、なんだか酔っちゃったみたい」
ミクたんは顔をひどく赤らめ、ほとんど恍惚としている。しめしめ、酔ったミクたんを襲っちゃって既成事実を作っちゃうぞ、なんて……w
「なんて…………──ぶばっ!!!???」
「!?」
僕はぶっ倒れたのだ。アルコールのせいで血が巡って、手首から血が出すぎたのだ。俗に言う多量出血で気絶、というやつだ。
「どうしたの!? 飲みすぎちゃった!? 大丈夫……!?」
ミクたんが僕を心配してあたふたしている。ああ、慌ててるミクたんも可愛いなあ……君はずっとそのままでいてね……僕はミクたんにも分からないぐらい小さく微笑み、微睡んだ意識の中で、ミクたんにキスをした……おやすみ、ありがとうね、……僕はそのまま、ゆっくりと意識を手放した……。