ヤクいぜ。

フン、まあいい……

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「難しいことを簡単に、誰にでも分かりやすく説明できる人こそ、本当に賢い人である」とは誰が言ったか、今でこそ正論として堂々、人口に膾炙しているが、これは全く馬鹿げている。もし俺がボーボボのビュティなら、誰かが同じようなことを言った瞬間「そーなの!!⁇」って叫んでいると思う。何がおかしいって、まずそもそも、論理が破綻している。難しいことというのは、「簡単ではない」から「難しい」のであって、ということは「簡単に説明する」ことも「簡単に理解する」ことも最初から不可能なのは、原理的に明らかなのだ。四則演算のままならない幼児に二次関数の説明を試みるのは無謀であるし、ピアノのどこが「ド」なのかも分からない初学者が複雑なコード理論を理解しようとするのも、また絶望的である。いわゆる“問題”は、説明ないしは理解に対し、ある程度の素養を強要して初めて、“難しい問題”たり得るのだ。

しかしながら上記の話がさしずめ“難しい問題”に相当するとは思えない。「難しいことは簡単ではない」なんて理屈は、ほとんど考えなくとも分かることなのだ。にも拘わらず、なぜ人がこのような自家撞着に手ずから嵌まってしまうのかというと、それは恐怖に由来している。人は「何かよく分からないもの」を恐怖する。もっと言うと、「何かよく分からないものの存在を認める」こと、すなわち「自分には理解できないものがあると認める」ことがたまらなく恐ろしいのだ。ここにはたらく防衛機制によって人は、「自分に理解できないものなんてない」=「あらゆる難解な言葉は別の平易な言葉に還元され得る」=「この世の全ての事象は簡単な説明によって理解可能である」という謬見に易々と陥る。この謬見こそが、今回の矛盾の大元である。以上のことから分かるように、自分に理解できないようなものの存在をなるべく否定したい人間(ここではとりあえず「主婦層」と呼ぶことにする。)が、これやよしと講じた建前が先の「難しいことを簡単に説明できる人こそ本当に賢い人だ」であり、しかしながら本当のところは「難しいことでも簡単に、分かりやすく教えろ。そんなことすらできない奴なんて、本当に賢いとは認められない」と、こういうことなのだ。未知への恐怖、知性への嫉妬が社会ぐるみの脅迫となって、今現在こうして知識人の元に大挙、押し寄せているというわけだ。“攻撃性は恐怖の主要な症状である”とは誰かの台詞だが、これに則して言えば、とどのつまり、全ては攻撃、抵抗であったのだ。主婦層による、学者や知識人、政治家に対する、恐怖と嫉妬とを固めた殴打が、ことの全てである。となれば、些細な矛盾や自家撞着など、気にも留めよう筈がない。何せ主婦層の行いはただ暴力であり、暴力の前には、他の少々の過ちは看過されて然るべきである。異文化迫害、人種差別、思想家や批判家叩き、あらゆる隔絶がこの辺りを出自にしている。

 

以上をもって、難しい言葉を使う人間への忌避感を少しでも軽減したいと考える。難しい言葉が用いられる場合には、それ相応の理由があるということを知ってほしいのだ。「ある物事に対し、自分がそれをどのように感じ、どのように考えているか」というのを言語化するにあたって、読み手あるいは聞き手に忌憚なく、過不足なく伝えるには、言葉に対して厳粛な態度をもって大切に扱わなければならない。コンテクストを取り除き、キャッチーに噛み砕いてしまえば、確かにそれで伝わりやすくはなるのだが、そんなものは一般化ならぬ愚民化であり、インスタント化であり、ただの抽象化でしかなく、あるいは譲歩である。これは当初の「忌憚なく、過不足なく」という理念に反する。自分の意見を余すことなくできるだけ厳密に言語化しようと思えば、文脈を多分に含んだ小難しい言葉の羅列に終始してしまうのは、いかにもナチュラルなのだ。礼も過ぎれば無礼になるとは言うが、学者は言葉というものに対しどこまでも誠実で、忠実であるだけである。ただし、受け手側がたまったもんではないのは、承知のところである。受け手はそうやって作り上げられた“難しい文章”を何度も精読、精査する必要がある。そういえばみんな、勘違いしているのだ。文章は一回読めば全部分かるなんてのは幻想で、十回でも、ものによっては百回でも読み込まなければ真なる理解には到達できない。カービィの「格闘王への道」はみんなクリアするまで何度でもコンティニューするのに、カントの哲学書は1回しか読まない、というのは、ヘンな話である。文章を読むのに必要なのは「読解力」などという意味不明のものではなく、「忍耐力」とあとは「識字能力」くらいのものである。そういう意味では現代文の試験なんていうのは、愚問である。高度な文章は繰り返し繰り返し読むことで初めて、書き手の思惑が鮮明になってくるものなのだということを、常々頭に留めておいてほしい。

誤解しないでほしいが、「分かりやすいものはただ有毒で、分かりにくいものこそ本質である」みたいな、どうしようもない話をしているわけではない。無理解をいちいち突っぱねない。バカをいちいち見下さない。大人なら分別をつけるべきだというだけの話である。あるときは哲学書に読み耽り、またあるときはポップカルチャーに豚のように享楽するというのが現代人の態度として最も整合性が取れているのだ。大事なのは、無理解を受け入れ、未知を無視せず、抽象化に意識的であり続けるアティチュードなのだ。が、フン、まあいい……。ヒューン(舞空術で飛び去る)